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地球へ…

地球へ…は竹宮恵子さん原作で、アニメ化もされた漫画「地球へ…」を原作寄りの視点で熱く語るブログです

Archive for the 'ソルジャー・ブルー' Category

12 11th, 2007

地球へ…の世界には、神という概念があったのでしょうか?

少なくともミュウたちは、神という概念を持っているようでした。

ジョミーがブルーの記憶をテレパシーで受け取ることを拒否し暴発した時に、ブルーが「神よ!あれほどのエネルギーとは思わなかった」と言っているので、人類やミュウなど地上に生きる者の力の及ばない存在がどこかにあると、思っていたことは確かでしょう。

では人類には神という概念があったかと言うと、微妙なところです。

キースが教育ステーション時代に書いていたレポートの科目に「宗教学総合理論」があったので、宗教という概念が残っていたことは確かです。

でも総合理論ですからねえ…宗教を過去のものとして、学者達がその教義や歴史を理論的に研究していたのかもしれません。神という存在を、昔人間が原始的だった頃に作り出した架空のものだと教えていたのではないでしょうか。

人類にとってはマザーコンピューターを頂点に頂くSD体制そのものが神であり、絶対的なものでしたから、マザーがいるからには、神は必要なかったと思いますし。

ここでもSD体制が現実の独裁政権と重なります。

独裁者は大抵自分の銅像を立てちゃったり、肖像画を各家庭に飾らせたり、自伝を国民に読ませたりして自分の神格化に励み、大抵は宗教を弾圧しますから…

自分が神となって何者にも止められない絶対的権力を振るうという欲望に取り付かれると、人間は行くところまで行ってしまうというのは、数々の実例が示しています。

自らを絶対的なものと神格化し、人間を意のままに操るグランドマザーの姿は正にその独裁者です。
しかもコンピューターシステムによる洗脳を用いて、人間たちにその事実さえ気付かせないのは、恐ろしい限りです。

ジョミーはグランドマザーと対峙した時に、「人間はマザーにあやされ育てられた意思のない子供 目も口も耳もふさがれながらそれを知らない不幸な子供だ」とキースに言っています。

「だが反逆児ミュウたちにはそれが見える」とも…

ミュウたちにSD体制の真の姿が見えるのは、自分たちが異端でありシステムから弾き出された存在であるためでもあったでしょうが、「神」という概念を持っていたからでもあるのではないでしょうか。

自分がどう行動すべきか、常に自分の心に問いながら、良心に従って最善を尽くして生きるために、自分の力の及ばない何か絶対的な存在、いわゆる神という存在が重要なのではと思います。

ジョミーは強力な超能力を持ちながら、それをどのように使うべきか、いつも慎重に考えながら生きています。

ナスカに偵察に来たサムの宇宙船を幻覚で攻撃した時に、とっさに力を出し過ぎ、そんな自分に驚き、恐れて涙を流しています。

またキースを殺さなかった理由を、「岩なら裂くこともできる…これは人間だ」と言っています。

強い力を持つ者が、自分の力に対する畏怖を失ってしまうと、他者の存在を軽視して暴走するのだと思います。

その点でジョミーは、強い力を持つ者にふさわしいと言えるでしょう。やはりその心に、自分よりも高い所から物事を見て判断する「神」のような存在を、いつも意識していたからとは言えないでしょうか。

一方マザーコンピューターは、人類やミュウの犠牲を厭わず、地球を再生させることを目的にして作り出されたもので、もちろん自分の絶大な能力や権力が世界にどのような影響を及ぼすかなんて、考えもしません。

自分が神であり、絶対であり、自分より正しい判断を下せるものはないという傲慢に陥った時点で、後は堕落し、腐敗するのが必定なのですよね…

何も独裁国家でなくとも、現代の日本を見てみると、神を気取り、権力を濫用する権力者が山ほどいるではありませんか。

地球へ…を読んでいると、つい現実世界とシンクロさせてしまうのですよね。

この物語が比喩であるということを考えると、未来の管理社会、超能力者という非現実的な設定でありながら、とても身近で現実的なストーリーに感じられるのも当然のことだと思うのです。



12 8th, 2007

あまりにも可笑しかったので…



11 28th, 2007

ジョミー・マーキス・シンは、初代ソルジャーのソルジャー・ブルーが自分の死期を悟り、次代のソルジャーとして選び、ミュウの未来を託した人物でした。

ソルジャー・ブルーは、いわばスターウォーズのオビ・ワン・ケノービに相当する人物で、主人公を否応なしに日常の世界から非日常の物語の世界に招くための存在です。

だから、とても重要で、物語の象徴的人物なのですが、やはり物語が始まり、ジョミーがミュウとして生きていくことを決意した時点で死ぬのが必然だったのです。

ブルーが死の間際に全てのミュウたちに、ジョミーを次代のソルジャーとして自分の心を託すと伝えたからこそ、ミュウとして覚醒したばかりのジョミーが長となったのです。

ジョミーをミュウとして受け入れることにさえ反対したり疑問を持ったりしたミュウ達は、ソルジャー・ブルーの遺志でなければ到底ジョミーをソルジャーとして受け入れることはできなかったと思います。

また、ソルジャー・ブルーが亡くなったからこそ、ジョミーはソルジャーを継がなければならず、ミュウたちにもジョミーをソルジャーとして受け入れる以外に選択肢が残されていなかったのです。

地球へ…のTVアニメを私が初めて見た回は、17回目(ナスカが攻撃される回ですね)だったので、何故かブルーが出ているのを見て、うーん…これはブルーに見えるけど別人?それとも回想?それとも何故かまだ生きてるの?と混乱しまくりでした。

スカパー!の特別番組の中で、TVアニメのスタッフ、出淵裕さんが、ソルジャー・ブルーを原作と違い、ナスカまで生きる設定にしたのは、ジョミーがいきなりソルジャーになれる訳がないからだとおっしゃってましたが、それってブルーが好きだから、活躍させたかっただけでは?

ソルジャー・ブルーが「眠り続けている」という中途半端な存在だったので、ジョミーは長としての自覚がいつまでも足りず成長しないし、他のミュウたちからもいまいち信頼されないし、活躍もしなくて存在意義も薄いし、かわいそうでした。

ソルジャー・ブルーはやはり、スターウォーズのオビ・ワン・ケノービのように、主人公に強烈な印象と影響と使命を与えたら、すぐ退場するべきだったのですよ…

どうしてもブルーが好きで、ブルーというキャラクターを動かしてみたかったのなら、スターウォーズのように、時代を遡ってエピソードを作れば良かったのになあ(T_T)

地球へ…の原作では、否応なくミュウの長、ソルジャー・シンとなってしまったジョミーは、悩み苦しみ試行錯誤しながらも、一生懸命リーダーとしての役割を果たそうとします。

地球へ…の中で心に残る台詞は本当にたくさんあるのですが、地球防衛本部へ向かう時にジョミーが言った「戦いはもう終わりだ これで最後……行かなければまだ続く だからぼくは行く」もそのひとつです。

リーダーたるもの、自分の生命を賭けてでも実現しなければならないことがあるのだと、子供ながらに感銘を受けたものでした。

そんな立派なリーダー、なかなか現実の世界には少ないですよね…
私もいつの間にか人をまとめる立場に立ってしまい、リーダーとしての資質を試されるようなこともままあります。

その度に何故か思い出すのは、若い頃の上司ではなく、ジョミーのことなんですよね(^_^;)
ジョミーのように誰よりも賢く強い一方で、繊細かつ優しく、いつも全体の利益を考える人間になりたいなあと、大人になった今でも思います。



11 26th, 2007

斎賀みつきさんは、スカパー!の特別番組で小学生の頃からの地球へ…ファンだったと話しておられ、私と同じだ!と、ちょっと嬉しかったりします。

でも斎賀さんは、映画から入ったのですってね。

私も、地球へ…は映画にもなったらしいと知ってはいたのですが、トォニィがジョミーとカリナの子供だったらしいと聞き、「ジョミーは永遠の14歳なんだから、絶対子供作ったりしないの(T_T)」と驚き悲しみ、今まで見ようという気になったことはありませんでした。

おそらく映画化するに当たって、恋愛の要素が少し位ないと一般受けしないだろうという商業的思惑があったのでしょうね。

地球へ…がTVアニメになってから、映画のDVDもレンタルされていたので、まあこの辺で諦めて映画も見ておこうかと思い、最近初めて見ましたけど。

斎賀みつきさんの声は、スカパー!でインタビューに答えていたのを聞くと、低めながらも明らかに女性の声なのに、アニメでは本当に少年のような声で、驚きました。

すらりとした長身に中性的な顔立ち、男性と間違えられたと言う話も、何だか納得してしまいます。

TVアニメのジョミーは、原作に比べると幼くて、斎賀さんくらいの声がちょうど良いように感じました。

最初は、わーわーぎゃーぎゃーと大変そうでしたが、ジョミーの成長と共にだんだんとクールな感じに演じておられましたね。

地球へ…のTVアニメは、私の中では「地球へ…が好きな人たちが作ったパロディー版」のような位置付けなので、本編よりもむしろPremium Fan Discの方が楽しめます。

斎賀さんが「私立シャングリラ学園」の中で演じるちょっとおちゃらけたジョミーが、とてもおかしいです(*^_^*)

それにしても声優さんと言うのは、すごい技とプロ意識を持った人たちだなあと、感心してしまいます。だって俳優さんや女優さんが、自らが出演した映画やドラマのパロディをやったりはしませんよね?

例え何かの間違いでやったとしても、絶対にあんなに面白くはならないと思います。

特にソルジャー・ブルー役の杉田智和さんの芸達者なこと!「私立シャングリラ学園」では壊れっぷりも派手で、抱腹絶倒でした。

「コミックリーディング」では一人何役も一度にやっちゃって、それがちゃんとその役を演じた人の声に聴こえるのは、拍手ものでした!おまけに効果音までちゃんと付けてしまって…

あと低周波治療器、私はかなりの間、本当だと思ってました(^_^;)

斎賀みつきさんについて書こうと思ったのに、何故か杉田智和さんの話になってしまった…



11 23rd, 2007

地球へ…の主要登場人物の中で誰が一番好きかと聞かれたら、みんな好きなのでなかなか甲乙付け難いのですが、二人に絞るなら、セキ・レイ・シロエと、ジョミー・マーキス・シンです。

どうしても一人に決めなきゃダメって言われたら(いや、まあ言われないとは思うんですが…)セキ・レイ・シロエでしょうか。

シロエは、コンピューターによる管理体制に徹底的に反抗し、14歳にしてその壮絶な生涯を閉じた少年です。

地球へ…の中で印象的な台詞はたくさんあるのですが、私にとって最も衝撃的だったのは、シロエがキースにぶつけた「僕は生まれて来たからには、自分の意思で自分の運命を選ぶと決めていた…」という台詞です。

あの異常なまでの管理社会で、コンピューターによる洗脳と監視とを受けながらも、自分の存在意義を見失うまいと、たったの14歳で、孤立無援の中必死で闘ったシロエ…

私はそのシロエの姿に、私にはシロエになかった自分の意思で自分の運命を選ぶ権利があるんだ、生まれて来たからには人間として意味のある生き方をしようと、決意したものでした(単純?)。

第二部にしか登場しなかったシロエですが、非常に重要なキャラクターです。

キース・アニアンは、教育ステーションE-1077でエリート街道驀進中の16歳の時に、シロエと出会います。

それ以前から、コンピューターによる管理社会に漠然とした疑問を持っていたキースですが、シロエとの出会いによって、その疑問は消せないものとなり、地球政府のエリートとなってからも、生涯にわたってキースの胸にくすぶり続けることになります。

シロエが何故そんなにもSD体制を憎んだか、その理由は私の解釈では、自分で選ぶと決めていた自分の運命を、コンピューターに強制的に決められてしまったことを大変な屈辱と感じていたからです。

まだ意識さえ芽生えていない人工子宮の中にいる間に、コンピューターに勝手に選別され育英惑星に送られ、さらに成人検査で記憶を取り替えられ、進路を強制的に決められたことを、絶対に許せなかったのです。

シロエは安穏と体制に支配される生き方より、人間らしい生き方を選んだのであり、決して映画のように単なるマザコンだった訳でも、TVアニメのように単に大人になりたくないピーターパン症候群だった訳でもないのです。

でもこのシロエの気持ちを理解できる人は、そう多くはないのかも知れません。なぜなら、現代人の多くは、自分が自由に選択を行って生きていると考えていて、実は所詮は抵抗できない大きな力に操作され、自由を奪われていることに気付いていないと思うからです。

シロエがこれほどまでにSD体制を嫌い、コンピューターによる支配を拒否しながらも、最期に逃亡を図った先が地球だったというのも、とても悲しい展開です。

だって地球を目指すという意識は、SD体制の下、コンピューターの洗脳によって植え付けられたものですから…

「マザーは僕の意思に勝てなかった」と言ったシロエは、実は既にコンピューターに洗脳されてしまっていたのです。

人間らしく生きるという希望を失わないために、死を覚悟で地球へ向かったのは、実はSD体制に対する敗北で、大変絶望的な最期だった訳です。

キースがシロエを撃墜する直前に「彼の心を占めるものは限りない敗北か、それとも限りない希望なのか」と自問するのは、キースにはそのことが分かっていたからに他なりません。

シロエの死の瞬間、シロエの切ない想いが空間を超えてジョミーに届き、見ず知らずの二人の想いが交差する、そしてジョミーは「時がすぎてゆく中で、ぼくはひとり、ただ一度の存在」と独白しています。

たった一度の人生を大切に生きなければならないことを、また人として正しく生きるということは、時に孤独であるということを、シロエは教えてくれました。

地球へ…の中でシロエが一番好きなのは、そういう訳です。

TVアニメが始まってから初めて知ったのですが、登場人物で誰が好きかと言ったら、圧倒的にソルジャー・ブルーなんですね(@_@)

シロエ派やジョミー派はどうも少ないようだと知り、ちょっと孤独を感じた私でした。



11 22nd, 2007

地球へ…は素晴らしい素晴らしいと騒いでいますが、実はこの原作、プロットが穴だらけなんですよね(:_;)

地球へ…以外の作品をあまり読んでいないのですが、原作者の竹宮恵子さんはどうも、大まかなプロットと主要な登場人物の設定を決めてしまうと、細かいことは気にせず勢いで一気に描き切ってしまう人のようです。

映画のように公開する時に合わせて作るものではなく、少しずつ発表していく連載もので、しかも当初は第一部のみで終わりの予定だったと言うので、後々若干の設定のほころびが出てくるのは仕方ないとは思うのですが、それにしてもかなり大胆だなあと思うことが多々あります。

一番すごいと思うのは、時間軸がめちゃくちゃなことです(@_@)

例えば教育ステーションE-1077で、新年を祝うパーティーが催されたシーンは、S.D.534年の年末で、この年キース・アニアン、サム・ヒューストン、ジョミー・マーキス・シンは16歳のはずです。

ところが、連載の回数としてはそれ程離れていないと思うのですが、ナスカでジョミーとサムとが再会した年は、S.D.577年で、作中ではジョミーとサムは23歳となっています…

普通に考えて59歳だろ!と思うんですけど(^_^;)

最初に読んだ時にはストーリーを追うのに一生懸命で全く気付きませんでしたが、小学生の私でも二回目に読んだ時におかしいと思いましたよ…

これ、描いてる人達も編集者さんとかも誰も気付かなかったんでしょうか?不思議でたまりません。

それから、ソルジャー・ブルーとフィシスが、いつどこで出会ったかと言うのも、謎すぎ(T_T)

フィシスがユニバーサルの水槽の中でまだ目覚めずにいた頃、ブルーは「恐ろしい囚われの身」(ジョミー談)だったそうですが、ブルーは3世紀に亘って生きたはずで、死んだ時に201歳未満では有り得ません。でも比較的若い頃にユニバーサルの研究所から脱走し、船を奪って地中に潜んだはずですよね…

フィシスがミュウの母船に迎えられたのは、ジョミーが来た50年前ということですから、どう考えてもフィシスが水槽の中にいた頃ブルーは150歳超えてます…

成人検査を受けた14歳からとして、130年以上もユニバーサルの実験体として囚われの身だったの?

しかも、仲間たちとユニバーサルを脱走してすぐ、思いに描く星はと言えば地球ばかりだったはず…

なのに物語も終盤に来て急に、フィシスが水槽の中で見ていた地球の夢に魅せられて、いつしか地球に憧れるようになっていたとブルーが言っているのは、どう考えても納得いかない(ーー;)

まあ30年の間に、出版側の誰かが途中で気付いても、それを訂正するのも恐れ多い程の伝説の名作になってしまったと言うことで(^.^)

何だかんだ言っても、これだけ多くの大胆な設定ミスがありながらなお、何度読んでも新たな感動を覚えるのは、登場人物たちの人物像、人格がしっかりと設定されていてぶれが無く、テーマやメッセージにも一貫性があるからだと思うのでした。



11 21st, 2007

地球へ…では、人間、ミュウ共に一度も行ったことも目にしたことも無い地球を愛し憧れ、ひたすら地球へ向かおうとします。

原作中では(TVアニメでもそうだったかな)、コンピューターによる洗脳で植え付けられた地球への憧憬がそうさせるのだという設定になっています。

何故地球に関する洗脳がそれ程上手くいっちゃうのかということを考えると、SD体制における「家族」というものと切り離せない関係があると思うのです。

SD体制の下では、子供は全てランダムに選ばれた卵子と精子との人工受精により作った受精卵を人工子宮で出生まで育てた試験管ベビーで、両親は血縁関係の無い養父母です。

原作のはじめ辺りでは、養父母は夫婦ではなく、職業的な保父・保母のペアなのだろうと思っていましたが、読み進んでいくと夫婦のようです(途中で設定を変えたのかも知れませんが)。

ここで重要なのは、現代における養父母と子供という関係を当てはめることはできないということです。

夫婦であろうとなかろうと、養父母はコンピューターの命じるままに職業として子供を14歳まで育てているのですから、あくまでも職業の範囲を超えることはないのです。

むしろ、コンピューターの洗脳に従ってやっている分、現代の保父さん、保母さんよりもずっと、子供に対する人間らしい愛情や愛着は無いはずです。

地球へ…のPremium Fan Discの中で、ジョミー役の斎賀みつきさんも、ブルー役の杉田智和さんも、原作の家族関係はおかしかった、アニメの方がずっと自然だと思ったとおっしゃっていましたが、私にはとてもまずいアレンジだったと思えました。

ジョミーの養父母がやたらとジョミーに対する愛情に溢れているのが、むしろ設定上不自然と感じました。

家族という人間の根源的なものさえも作り物の、まやかしの世界が、SD体制の世界なんだと解釈しています。

TVアニメでは家族関係をきちんと成立させてしまったことで、原作にあるSD体制の不気味さ、非人間性を描き切れず、またミュウ達が地球を目指す動機が希薄になったと考えています。

家族を始めとする愛情を傾ける大切な対象を、離別や死別によって失うことはとても辛いことですが、その暖かい思い出は、意識上だけでなく深層心理にも残り、人格形成に影響します。

たとえテラズナンバーの洗脳によって記憶が消されても、性格は変わっていなかったのですから、子供の頃にきちんと愛情を受け形成された人格は、消滅することはないのです。

愛情の対象を途中で失うこと以上に辛いのは、「本当の愛情を知らない」ことです。

地球へ…の原作では、ジョミーは目覚めの日に「なぜ涙が出るのだろう…悲しくて虚しい…」と独白します。また、最後まで自分の両親が本当に自分のことを愛していたかと、ずっと気にしています。

答えは「否」と分かっていながら…

愛情によって満たされたことが無く、愛情に飢えているからこそ、心から愛を捧げるべき母なる地球に憧れ恋焦がれ、命まで懸けるのです。トォニィが原作で、この気持ちを理解できなかったのは、実の親の愛情を知っていたからでしょう。

地球を第一義と考え、全てを地球のために投げ打つというコンピューターによる洗脳は、この背景によって成立しているのだと思います。

地球へ…を初めて読んだ私は小学生ながらに、作中のミュウ達と人間達の、愛に飢えその代償として地球を目指す悲痛な気持ちを思い涙したものでした。

しかもその憧れの気持ちは、コンピューターによる洗脳によって植え付けられたものだなんて、何と悲しいのでしょう。

すごいと思うのは、作者の竹宮恵子さんの、家族のあり方に対する洞察の深さです。

地球へ…のSD体制下での家族関係は、意図的にこのように描写されたものだと思いますが、本当の愛情を知らないことの悲しさを、20代でこんなに上手く描くとは、一体何者?って思ってしまいます。