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地球へ…

地球へ…は竹宮恵子さん原作で、アニメ化もされた漫画「地球へ…」を原作寄りの視点で熱く語るブログです

Archive for the 'ジョミー・マーキス・シン' Category

ツェーレン

Author: admin

11 16th, 2011

ジョミーが地球へ向かう時に、ツェーレンに船を託すことは、必然だったと考えています。

ジョミーの心をミュウの中でも一番良く理解できるのは、ジョミーの意志により生まれた存在、ミュウの中でも特殊な、なんとなく浮いた存在であったナスカの子たちだと思うので。

ツェーレンは物語の終盤で、地の底からの叫びを聞き、人類を助けるために地球へ降下することを選びます。ジョミーがテラへ向かう時に、「非常の時にわれわれのことは考えるな……遠い仲間のことだけを考えるように」と言い残したにも関わらず。

ツェーレンには、ジョミーならば同じ選択をしたと分かっていたからでしょう。

遠い仲間-ミュウのことだけを考えず、ミュウであろうが人類であろうが、はたまたナスカの子であろうが、助けを必要としていれば自分を犠牲にしてでも無条件に助けると言う、究極の奉仕の精神ですね。

人類とミュウとの間の境界を、人類ともミュウとも違うナスカの子、ツェーレンが取り払ったことで、それまであった人類とミュウの対立はもちろん、ミュウとナスカの子たちとの間の確執も、取り払われたのだと感じました。

3年以上ブログをほったらかしにしていたら、知らない内にBloggerのシステムが変わっており、WordPressに移行するのにすごい苦労をしてしまいました。頂いたコメントも、全部消えてしまったし(T_T)

3年前に下書き段階で放り出していた投稿が何編かあったので、久々に書いてみました。



竹宮恵子さん

Author: admin

03 14th, 2008

地球へ…の原作者、竹宮恵子さんは、ジョミー役の斎賀みつきさんに言わせると、「ソルジャー・ブルーとフィシスを内に秘めている人」だそうです。

どんな物語でも、作った人の内なる人格が登場人物の人格になるのだろうと思うので、ソルジャー・ブルーとフィシスはもちろん、セキ・レイ・シロエもジョミー・マーキス・シンもキース・アニアンも、みんな竹宮恵子さんの中にある別の人格だと言うのは想像に難くないですけど。

地球へ…のマンガ少年別冊版を初めて手にした時に、物語の深さ、面白さにはまったことはもちろん、作者の竹宮恵子さんに対しても、賢くて綺麗な女性なんだなあと、憧れを抱いたものでした。

地球へ…には、竹宮恵子さんの、人間というどうしようもなく愚かな存在を冷静に見つめ、妥協することなくシビアに描く姿勢と共に、そんなどうしようもない人間に対する深い愛情と、人間の進歩と良い変化を信じる姿勢を感じます。

竹宮恵子さんは、本当に素敵な女性なのでしょう。
一度でいいからお会いしてみたいものです。



03 12th, 2008

私立シャングリラ学園最終回は、やっぱり卒業式でしたね。

リオが煙幕(多分)を使ってジョミーを誘拐し「青の間」に連れて行った入学式から始まって、中間試験、学園祭、林間学校、クリスマス、バレンタインと、毎回季節を反映したネタだったので、そうじゃないかと思っていましたけど。

最終回は何だか今までのような圧倒的なパワーがなく、おとなしい感じで、今ひとつ面白くなかったのが残念でした。

地球へ…の脚本を書いた人たちはきっと、しんみりしたものを書く才能より面白いものを書く才能の方があるのでしょう。

ジョミー、もう一年生徒会長…じゃなかった、ソルジャーやらされるんだ…かわいそうに(^_^;)
そしてブルーとフィシスが進学する大学が、シャングリラ学園の隣にあるなんて、ジョミーの今後が思いやられます。

でもリオは二年生でジョミーより上級生なのに、何でそんなにジョミーのこと尊敬しちゃってるの?



03 11th, 2008

地球へ…DVD最終巻にジョミーとキースの「もう一つのエンディング」が収録されていましたね。

テレビアニメの製作スタッフの間で、ラストはどうするかと議論され、大変難航したそうなので、たくさんあった案の中から、せっかくだからとおまけに付けられたものなのでしょう。

ジョミーとキースの二人は本来主役のはずなのに、他の登場人物にお株を奪われて存在感どころか存在意義さえ希薄だったので、まあ最後くらいは花を持たせてあげたいところです。

それにしてもこの映像、キースとジョミーの涙が「だらだら」という感じで落ちるのはどうかと(^_^;)
できれば「はらはら」と落としてほしかったんですけど…



指導者

Author: admin

03 9th, 2008

SD体制下では人間の指導者はグランドマザー(とキース・アニアン)、ミュウの指導者はジョミー・マーキス・シンでした。

地球へ…のラストでは、人間たちが自らコンピューターの部品と化してまで再生を図った地球が滅びます。
それと引き換えに、人間とミュウとは和解し、共存への道を歩むことになるのです。

それまで長い長い対立の時代を生きてきたミュウたちと人間たちは、それぞれに強い指導者を必要としたことでしょう。

でも人間たちがコンピューターの支配から解放され、今後は自分たちの意思と判断で生きることになったので、強い指導力で人々を牽引するソルジャーや国家元首は必要なくなったのだと思います。

テレビアニメでトォニィがソルジャーになっちゃったのは、私はとても不自然に感じました。
だいたい監督が、ミュウと人間との新旧交代を描きたかったのなら、今後人間たちはミュウの支配下に置かれ、ソルジャーの導きに従って生きる訳??

だったらグランドマザーがソルジャーに代わっただけで、何も進歩ないじゃないですか(^_^;)

人間って世代を重ねても成長しない生き物で、古代ローマの紀元前の遺跡から、「最近の若い者は」って言う落書きが見つかったと、誰かが書いていました。

科学技術が進歩しても、現代の人間たちは紀元前の人間たちと何ら変わるところがありません。

大切なことを知ろうとせず、自ら考えず、何でも人任せなのに、結果には不満だらけ…
指導者と言われる人たち、権力や地位やお金を持っている人たちも、私利私欲に走り、全体を省みることをしません。

普通の人より優れた人たちが、滅私の精神で世界を変えていく気がなければ、いつまで経っても世界は今のままでしょう。

地球へ…を通して竹宮恵子さんは、そんな人間たちに「目覚めよ人よ」と呼びかけているのだと思うのです。

ジョミー・マーキス・シンが、キース・アニアンが、自らを捨てて、命を懸けて自分の下にある人たちを導こうとしたように、実在の指導者たちが考えれば、世界は変わるに違いありません。

そして、全ての人間が誰からも支配されず思うままに行動して、なおかつ正しく生きることができるようになれば…

そう考えると、地球へ…のラストは、究極のユートピアへのプロローグだと思えるのです。



ジョミーとサム

Author: admin

02 4th, 2008

サム・ヒューストンは教育ステーションE-1077時代にはキース・アニアンの親友で、アタラクシアではジョミー・マーキス・シンと友達(喧嘩相手?)だったと言う設定でした。

サムは大変人の良い、優しい人でしたが、それだけに完璧にコンピューターに洗脳されていました。システムの正当性を信じて疑わず、キースがシステムに批判的な言動を取ることを、いつも気にかけている人でした。

良い人と言うのは往々にしてサムのように操作しやすい人たちであり、客観的、批判的な判断が苦手で、一般的に流布していることを正しいと信じて疑わない人たちだと、私は思っています。

サムのような悪意のない人たちが、実は世の中を操作しようとする悪意ある人たちにとっては都合が良いのですよね。

ジョミーとサムとがナスカで再会した時に、ジョミーは昔のように友達同士として接することができると考えていたのに、サムはジョミーのことを「成長しない化け物」と呼び、恐れ、ナイフで刺そうとします。あるいは本気でジョミーを殺そうとしていたかもしれません。

ミュウは危険で現人類の存在を脅かす人種で、存在自体認められないと教育され洗脳されたサムは、例えジョミーが懐かしい昔の友人であっても、ミュウと言うだけで受け入れられなかったのでしょう。

ジョミーにとっては自分がミュウであると知ってから初めて接した、まだ普通の人間であった頃の友人が、自分を拒絶した事実は、相当衝撃的なものだったに違いありません。

竹宮恵子さんはサムを通して、善良な人たちの無知蒙昧が、実はいかに恐ろしいかを訴えたかったのだと思います。

テレビアニメでは、サムがジョミーと再会する直前にマザーコンピューターに催眠をかけられたと言う設定でしたが、そんな込み入ったことをしなくとも、SD体制下で善良な市民として生きること自体が、洗脳され、操作されることなのですから…

サムは善良な人だからジョミーとの再会を喜ぶはずと言う発想に基づいたテレビアニメの安易な展開は、私にとってはちょっと受け入れがたいものでしたね(T_T)



01 29th, 2008

ジョミーにとってフィシスは、母であり、姉であり、憧れの女性であったのだろうと思っていました。

でも最近、ジョミーは実はもっと具体的な恋心をフィシスに対して抱いていたのではと気付きました。

グランドマザーの元へ赴くジョミーとキースとは、その途中で交わした会話により、最終的には和解したのだと考えます。

ジョミーが「フィシスはきみのお母さんだ…知っていたか?」とキースに問いかけ、キースが「思慕のような」ジョミーの感情を感じ取ります。

ジョミーは心なしか少し照れた様子を見せていました。

私は、ジョミーの思慕のような感情は、当然ジョミー自身の育ての母、「マム」に向けられたものとばかり思っていました。

でもよく考えてみると、ここで話題になっているフィシスに対する思慕の情なのでは?とも受け取れます。

そう言えば、ジョミーはフィシスに対し、「ジョミーでいい…きみにだけはそう呼んでほしい」と意味深長な言葉を口にしていました。

また、ナスカに永住を希望するミュウが出て来たことで長老たちの怒りを買い、ジョミーが精神攻撃を受けて倒れる直前に、フィシスがジョミーの呼びかけを感じています。

トォニィがフィシスを「地球人と通じて逃げ道を教えた」と責めた時にも、ジョミーは「なぜだっていい、彼女を傷つけるのは許さない」と、かばっています。

今にして思えばフィシスに対して特別な感情を抱いていたからかも…

でもフィシスはブルーの「大切な人」であり、「ミュウの女神」ですから、ジョミーはフィシスに自分の想いを知られることにより、フィシスを困らせたり戸惑わせたりしたくなかったのかもしれません。

ジョミーの心の何と繊細で美しいこと…

竹宮恵子さんの世界の繊細さ、儚さ、美しさは、なかなか他の人には表現できないようで、それが映像化するとどうしても大雑把で緊張感のない、暢気な感じになってしまう原因かもしれません。



ハーレイ

Author: admin

01 28th, 2008

ハーレイという名前、私は長い間ファーストネームと信じて疑いませんでした。

でもテレビアニメでは「ウィリアム・ハーレイ」という名前で航宙日誌書いてましたね。
航宙日誌って言う言葉も初めて聞きましたけど、それよりハーレイという名前がラストネームだったことに驚きました。

そこで調べてみると、ハーレイという名前はファーストネームにも、ラストネームにも使われるようです。

まあ何千年も未来の話なので、言語も今とは相当違っているであろうことを考えると、どちらでも良いような気もしますが。

ブルーはもちろん、ゼル、エラなどの長老たちとフィシス、リオなど、主立ったミュウにはジョミーのようなミドルネームやラストネームが無いようでした。

私はずっと、これはユニヴァーサルに囚われていた(フィシスは特別待遇だったようですが)ことのあるミュウたちは、マザーコンピューターによって育った家庭の記録も、記憶も消されてしまったからなのだろうと思っていました。

どこの誰だか分からないようファーストネームだけにされてしまい、人権を奪われ実験体として扱われたミュウたちは、想像を絶する苦難を味わったことでしょう。

古いミュウたちの人間に対する深い憎しみは、こういう経緯により生じたのではないでしょうか。
ハーレイも古いミュウであり、ラストネームが無いので、同じ扱いを受けたはずと思っていたのですが…

それにしてもウィリアムって(^_^;)英語圏で一番多い名前じゃないですか。もうちょっと何とかならなかったのかな?



E-1077

Author: admin

01 25th, 2008

E-1077では成人検査を優秀な成績で通過した少年少女1000名を教育していました。

14歳の誕生日が成人の日なので、恐らくそれまでに今の高校卒業程度の教育が終わって、E-1077は大学教育に相当するのだと思います。

エリート1000名しかいないので、選りすぐりの学生ばかりなのでしょう。現代の日本では超一流大学と言えども、毎年1万人以上の新入生が入学するのですから…

そう考えるとたったの2年間で教育が終わってしまうのも不思議ではありません。
宇宙きっての超エリートばかりなら、2年で相当な量と質の勉強ができちゃうことでしょう。

でもその超エリートの中でもやはり優劣がついてしまう残酷さ…キースとサムとは、同じ教育を受けながらも、一方は16歳にして地球政府の中枢の一端に付き、他方はパイロットか通信士が関の山と言っていました。

ところでE-1077の教育課程は、恐らく2年間が1クールになっているのだと思います。
そうでなければ、シロエとキースが「抜きつ抜かれつトップ争い」することは出来ませんからね…

テレビアニメでは映画の影響を受けたものか、教育ステーションでの教育は4年間になっていたのですが、地球の役に立つ人間を育成することに特化した教育課程ですから、そんなに長時間必要ないでしょう…

その設定により、シロエとキースとは4歳違いということになってしまい、シロエがキースに匹敵する頭脳の持ち主だったということが良く分からなくなってしまっているのは残念です。

私立シャングリラ学園では、現代日本の教育課程の概念を持ち込んでしまったことで、かえって面白くなっていましたけど。

シロエが高らかに「僕は機械の申し子に勝ったんだ!」と叫ぶのに対し、「君、キースと学年違うじゃん…ってか君、中等部だし…」と冷静に突っ込むジョミー…

もう笑い過ぎて、死ぬかと思いましたよ(^_^;)
井上麻里奈さんの声の可愛らしさと弾けっぷり、やっぱり良いなあ…



ユウイ

Author: admin

01 23rd, 2008

トォニィのテレビアニメでのお父さん、ユウイは、マンガ少年別冊第二部の最後に収録されていたSF短編「集まる日」の主人公でした。
子供の頃読んだはずなのに、最近読み返すまですっかり忘れていましたが。

何にせよ、トォニィのパパがジョミーじゃなくて良かった…
くどいようですが、ジョミーは永遠の14歳なんですから子供作ったりしないんです(`^´)

それに、真のリーダーというのは孤独であり、私情に走ったり恋愛に現を抜かしたりしていてはみんなをまとめることも、引っ張ることも出来ないと思うのです。

映画でのジョミーは、カリナに好意を持っているのに正面切って言い出せず、ミュウの子孫を作るという大義名分をダシにカリナを口説いたようにしか見えませんでした。

ソルジャーともあろう者が情けないしセコイじゃないですか全く…

テレビアニメでは、ユウイの名前は確か墓標に「アスカユウイ」と刻んでありましたが、マンガでは「水凪結惟」という名前でした。

集まる日の中で、竹宮恵子さんの超能力者と既存の人類との関係についての考え方が、登場人物の言葉を借りて語られます。

「超能力を恐れる現人類が新人類を排斥しようとしてESP狩りをし、それを逃れた新人類たちは結集し、この種のテーマではたいてい、最後は新旧交代で終わる」と、終笛は言っています。

この頃の超能力を扱った物語は、きっとその手の物が主流だったのでしょう。終笛の台詞の前半部分と、地球へ…のストーリーは同様の展開をしています。

でも単に超能力を持ったものが、旧人類に代わって世界の主権を握るというストーリーではないことが、地球へ…の新しいところだったのですよね。

異なった者同士、いかにして共存していくか?という、普遍的なテーマを持つ作品なので、舞台装置や道具立てが少々古臭いにも関わらず、今読んでも全く古さを感じないのでしょう。

竹宮恵子さんは終笛に「僕が新人類なら人間を支配しようなんて思わないし、できるとも思わない」と、マンガのラストでは「お前たちには超能力を持つにふさわしい精神がない」とも言わせています。

また結惟は、超能力を持つ新人類を称して、「目覚めたるもの」と言っています。

彼らの信念、言動は、そのままジョミーに引き継がれています。

ジョミーは非常に強い力を持ったミュウであり、なおかつその力をどう使うべきか常に考えて生きており、優れたものならではの苦悩も持っていました。

ジョミーはまさに目覚めたるもの、力を持つにふさわしい精神を持ったものでした。
ユウイのことを書こうと思ってタイトルつけたのに、やっぱり最後はジョミーになっちゃいました(T_T)

ほぼ毎日駄文を綴って来ましたが、先日記事が50を超えてしまいました(^_^;)
我ながら良くこんなに書くことあるなあ…

でも毎日たくさんの方が読んで下さるのを励みに、これからも書くつもりですので、どうぞよろしくお願いします\(^o^)/