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地球へ…

地球へ…は竹宮恵子さん原作で、アニメ化もされた漫画「地球へ…」を原作寄りの視点で熱く語るブログです

Archive for the 'ソルジャー・ブルー' Category

竹宮恵子さん

Author: admin

03 14th, 2008

地球へ…の原作者、竹宮恵子さんは、ジョミー役の斎賀みつきさんに言わせると、「ソルジャー・ブルーとフィシスを内に秘めている人」だそうです。

どんな物語でも、作った人の内なる人格が登場人物の人格になるのだろうと思うので、ソルジャー・ブルーとフィシスはもちろん、セキ・レイ・シロエもジョミー・マーキス・シンもキース・アニアンも、みんな竹宮恵子さんの中にある別の人格だと言うのは想像に難くないですけど。

地球へ…のマンガ少年別冊版を初めて手にした時に、物語の深さ、面白さにはまったことはもちろん、作者の竹宮恵子さんに対しても、賢くて綺麗な女性なんだなあと、憧れを抱いたものでした。

地球へ…には、竹宮恵子さんの、人間というどうしようもなく愚かな存在を冷静に見つめ、妥協することなくシビアに描く姿勢と共に、そんなどうしようもない人間に対する深い愛情と、人間の進歩と良い変化を信じる姿勢を感じます。

竹宮恵子さんは、本当に素敵な女性なのでしょう。
一度でいいからお会いしてみたいものです。



03 12th, 2008

私立シャングリラ学園最終回は、やっぱり卒業式でしたね。

リオが煙幕(多分)を使ってジョミーを誘拐し「青の間」に連れて行った入学式から始まって、中間試験、学園祭、林間学校、クリスマス、バレンタインと、毎回季節を反映したネタだったので、そうじゃないかと思っていましたけど。

最終回は何だか今までのような圧倒的なパワーがなく、おとなしい感じで、今ひとつ面白くなかったのが残念でした。

地球へ…の脚本を書いた人たちはきっと、しんみりしたものを書く才能より面白いものを書く才能の方があるのでしょう。

ジョミー、もう一年生徒会長…じゃなかった、ソルジャーやらされるんだ…かわいそうに(^_^;)
そしてブルーとフィシスが進学する大学が、シャングリラ学園の隣にあるなんて、ジョミーの今後が思いやられます。

でもリオは二年生でジョミーより上級生なのに、何でそんなにジョミーのこと尊敬しちゃってるの?



ハーレイ

Author: admin

01 28th, 2008

ハーレイという名前、私は長い間ファーストネームと信じて疑いませんでした。

でもテレビアニメでは「ウィリアム・ハーレイ」という名前で航宙日誌書いてましたね。
航宙日誌って言う言葉も初めて聞きましたけど、それよりハーレイという名前がラストネームだったことに驚きました。

そこで調べてみると、ハーレイという名前はファーストネームにも、ラストネームにも使われるようです。

まあ何千年も未来の話なので、言語も今とは相当違っているであろうことを考えると、どちらでも良いような気もしますが。

ブルーはもちろん、ゼル、エラなどの長老たちとフィシス、リオなど、主立ったミュウにはジョミーのようなミドルネームやラストネームが無いようでした。

私はずっと、これはユニヴァーサルに囚われていた(フィシスは特別待遇だったようですが)ことのあるミュウたちは、マザーコンピューターによって育った家庭の記録も、記憶も消されてしまったからなのだろうと思っていました。

どこの誰だか分からないようファーストネームだけにされてしまい、人権を奪われ実験体として扱われたミュウたちは、想像を絶する苦難を味わったことでしょう。

古いミュウたちの人間に対する深い憎しみは、こういう経緯により生じたのではないでしょうか。
ハーレイも古いミュウであり、ラストネームが無いので、同じ扱いを受けたはずと思っていたのですが…

それにしてもウィリアムって(^_^;)英語圏で一番多い名前じゃないですか。もうちょっと何とかならなかったのかな?



ミュウの超能力

Author: admin

01 3rd, 2008

地球へ…がTVアニメになってから、ミュウが超能力者であることをうらやましいと考える人が多いと知って驚きました。

人より優れた点があるということは、かえって不幸なことなのですよ…

例えば旧人類はミュウを、自分たちより進化した、より優れた存在と判断したため、恐れ弾圧したのであって、旧人類にはないその能力こそがミュウたちの不幸そのものなのですから…

それを単純に超能力があってうらやましいと思うのは、想像力に欠けるのではないでしょうか?人にない能力を持っていると言うことは、それだけで一つ十字架を背負っているようなものなのに…

地球へ…に限らず、人間の作り出す物語の登場人物は、ほとんどの場合作者の分身だと思うのですが、竹宮恵子さんの分身であるソルジャー・ブルー、ジョミー、シロエ、キース、その他の登場人物たちは、みんな他の人の持たない能力を持ち、他の人の気付かないことに気付いてしまい、他の人の思いもよらないような深い苦悩を抱えて生きています。

その姿はそのまま、人より優れているが故にかえって人より生きることが困難だった竹宮恵子さんの姿を反映しているのだと思います。

キース・アニアンはナスカを殲滅する時に「人間には人間以上は要らない」と言っています。キース自身が実は人間以上だったのですが、キースはSD体制を守るためにシステム自身によって作り出された存在だったので特殊な例外として、「世界の秩序」を守るためには、優れたものは往々にして邪魔者になるのですよね。

ジョミーが言ったように「マザーにあやされ育てられた意思のない、目も耳も口もふさがれながらそれを知らない」人間ばかりなら、支配しやすいのですから…

人より優れた能力を持っている存在がうらやましいと思っても、それと表裏一体の苦悩を想像すると、自分はそうでなくて良かったと思えるはずです。

あっという間に2008年となりました。今年もどうぞよろしくお願い致します\(^o^)/
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01 1st, 2008

地球へ…のTVアニメを監督したヤマサキオサムさんは、やっぱりソルジャー・ブルーの大ファンだったのですね…

きっとそうに違いないとは思っていましたが、Premium Fan Disc6を聞いて、ソルジャー・ブルーというキャラクターに対するあまりのこだわりに驚きました。

でも、映画のディレクターズカット版が大抵、監督の思い入れだけで、あのシーンもこのシーンもと詰め込みすぎて冗長でつまらないのと同じように、強すぎる個人的思い入れは、物語をつまらなくするだけなのですよね(/_;)

監督がソルジャー・ブルーの熱狂的ファンだったことは、この作品をTVアニメとして現代に蘇えらせたと同時に、単なるキャラクターのための物語にしてしまい、全体を台無しにしてしまったという功罪両方の結果をもたらしましたね…

Premium Fan Disc6の中で、竹宮恵子さんからソルジャー・ブルーへ宛てたメッセージが、杉田智和さんによって読まれました。非常に深遠で感動的なメッセージだったので、つい書きたくなってしまいました。

竹宮恵子さんにとってブルーは憧れの具象化だったのだそうです。

竹宮恵子さんは、実は自分は現実的な人間なので、あまりにも強い憧れは人には見せない、だからブルーは物語からすぐ姿を消してしまったのかもと、書いておられました。

でもその憧れとは、勝手に理想化した男性に憧れる少女のような単純なものではなく、やはり自らがどう生きていくか、その指標となるような存在だったのですね。

非の打ち所なく滅私の心を持ち、ジョミーと言う個性を選び信頼し、全てを託したソルジャー・ブルー。

竹宮恵子さんの「選んだなら信じる、行き着けなくても行く、全てを懸けたら後悔しない、手を尽くしてその身を投じる…そうすればいつか必ず山は崩れ水は流れ出す、それがこの世界の真実」という言葉に、打ちのめされました。

私も幼い頃そのメッセージを受け取り、一度きりの人生、後悔のないように、例え目指す所にたどり着けなくとも、全力で生きるのだと誓ったものでしたよ(T_T)

ソルジャー・ブルーの「地球へ行くのだ…」という言葉が、これからも私に囁きかけるでしょう。

こんな素晴らしい漫画を描いてくれて、竹宮恵子さん本当にありがとう(;O;)



12 24th, 2007

ジョミーがナスカをひと時の安住の地として選んだのは、「閉じ込められた皆の心を解き放ち」、「人間への憎しみだけで一杯の心にもっと温かい思いをしてほしかった」という理由からでした。

地球とは似ても似つかぬ、二つの太陽と赤い大地の星、ナスカ…

ソルジャー・ブルーの遺志を大切に思いながらも、仲間たちのために最善と考えて、苦悩の末に一旦ナスカに降りることを決意したジョミーに対し、ミュウ達は、それぞれに主張や要望をしてきます。

ジョミーを支えるべき立場であり、何百歳も年長の長老たちまで…

人間への憎しみに囚われている長老たちは、多くのミュウが地球へ向かうことを断念しナスカへの永住を希望するようになったことをジョミーの責任と考え、「みなおまえの独断が…!」と、ジョミーに精神攻撃をかけてしまいます。

小学生の時には、「長老たちひどいなあ…一番悩み苦しんでいるのはジョミーなのに(T_T)ジョミーよりずっと年上なんだから、もうちょっと分別があってもいいんじゃない?」と思っていました。

この場面もそうですが、初めてジョミーがミュウの船に行き、「おまえたちのような化け物といっしょにされるくらいなら…」と発言して若いミュウたちを怒らせた時にも、手ひどい精神攻撃をくらっています。

地球へ…の原作では、ミュウはとても感情的で、キースの言葉どおり「すぐカッとなり、怒ったり泣いたり同情したり、そのくせいざとなると闘争心がない」ように描かれています。

TVアニメでは、ミュウたちはもっと立派で理性的で自制心があり、「危険な力を振り回す化け物ではない」ことになっていました。

この設定により何となく、ミュウ=正義、人間=悪という図式ができてしまって、戦争に良いも悪いも無い、戦争において正義VS悪という単純な図式は成り立たないという、原作のメッセージが希薄になってしまいました。

ミュウと人間双方が多くの欠点を持ち、なおかつ各々の価値観でより良い世界を実現しようと模索する存在であればこそ、両者の戦いに悲壮感が漂うのであり、それを単純化してしまうと、深みがなくなってしまいます。

長老たちがナスカを凶星と考え、ジョミーに責任を押し付け、精神攻撃までしてしまうのは、とても人間くさく、自然な展開だと思うのです。



12 20th, 2007

以前「プロットの穴」で、ソルジャー・ブルーは亡くなった時201歳以上だったはずと書きましたが、最近その間違いに気付きました。

3世紀にわたって生きるには、生まれた年にもよりますが、最も短くて101年生きれば良いのですよね…

地球へ…の原作の序盤で、SD336年にミュウが発見されたとあり、ソルジャー・ブルーはミュウの中でも最も長く生きてきたとのことでしたから、その年が成人検査を受ける14歳だったと考えるのが自然でしょう。

そうするとソルジャー・ブルーはSD322年生まれ、前述したように、途中で時間がワープ(?)しているので、とりあえずジョミー、キース、サムが16歳、シロエが14歳の年の年末が534年とすると、ソルジャー・ブルーが亡くなったのはその2年前ですから、SD532年で、享年210歳ですね…

でも、ジョミーとサムとがナスカで再会したのがSD577年で、その年二人は共に23歳という設定に従うと、ソルジャーブルーはその9年前、SD568年に266歳で亡くなっていることになります。

旧人類の3倍もの寿命があるということでしたから、どっちかと言うと266歳まで生きたというのが正解っぽいですが…

でもジョミーがミュウの船に迎えられた直後、教授が150年の間に集まったミュウの数は1000を超えたと言っていたので、この年は元々SD480年頃という設定だったのか?

考えれば考えるほど謎ですね(^_^;)



ミーシャって?

Author: admin

12 17th, 2007

地球へ…のエピローグは、極力説明を省き、読者の自由な解釈に委ねるように描かれています。

最初に読んだ子供の頃は、少年とミーシャのビジュアルと、少年のやんちゃぶり、また二人が手を触れると心が通うということから、ジョミーとフィシスの生まれ変わりでは?と解釈しました。

もちろんこの少年と少女はミュウであり、二人の両親は、わが子が不思議な力を持っていることを知っていながらそれを受け入れ、慈しんで育てているのだと思いました。

ジョミーやシロエやキースの時代から悠久の時が流れて、やっと人間とミュウとが自然に共存できる宇宙になったのだと、感慨深く思ったものでした。

ソルジャー・ブルーやキース・アニアンの記憶の他に、ジョミーとフィシスの知るはずのないセキ・レイ・シロエの記憶をも、少年とミーシャが持っていたのは、宇宙を漂う際限のないエネルギーの一部である少年と少女が、過去に生きた多くの人々の意識や記憶や想いを、生まれながらにして受け継いでいたのだろうと思っていました。

それにしても少女をミーシャと名付けたのに、少年には名前を付けなかったのは、竹宮恵子さんに何か意図があったのか、それとももう名前を考えるのが面倒だったのか(^_^;)

大人になった今考えると、この二人は誰かの生まれ変わりなどではなく、むしろ過去の登場人物の誰とも関係ない、誰でもない子供たちだったのだろうと思っています。

どちらにしても、宇宙に漂う今は亡き人々の残した精神を感じ取ることのできる二人のミュウが、同じ記憶を持ち、別々に生まれ、そして出会い、恐らく二人はアダムとイブのように、また地球上に生命を作り出すのだろうと考え、胸が一杯になりました。

今度こそみんなが人間らしく生きられる社会を作れるといいね…と二人に語りかけた私は、今私たちが生きている社会は、本当に人間らしい生き方のできる社会なのだろうか…と、つい疑問に思ってしまったのでした。



12 15th, 2007

地球へ…の主要な登場人物たちは、みな異端児です。

セキ・レイ・シロエはエリート候補生でありながら、非人間的なSD体制を断固拒否し、自分の人間としての尊厳を保つためには死をも辞さない強い意思を持っています。

ジョミー・マーキス・シンは、成人検査までの14年間を過ごしたアタラクシアで、自分の住む世界や、他の人間に対する違和感や疑問を抱きながら、体制からはみ出した、感情過多な問題児として育ちました。そして、他のミュウとは比較にならない位の強力な超能力を持っています。

ソルジャー・ブルーは、ミュウと言う新人類が人間に認識された最初の存在で、やはり非常に強い能力を持ち、明らかに他者とは異質な存在です。

キース・アニアンは、マザーコンピューターのプログラムの一環としてSD体制護持のために作られた、いわば人造人間で、人間ともミュウとも異質な存在です。なおかつ人類の指導者となる宿命を負いながらも、他の誰もが信じて疑わないSD体制に対する深い疑問を常に持ちつつ生きています。

これほどまでに異端児ぞろいの登場人物…

思うに、作者の竹宮恵子さん自身が異端児だったことが、この物語を作る原動力になったのではないでしょうか。

登場人物の一人一人が、きっと竹宮恵子さんの分身なのでしょう。

高校時代から漫画を描き雑誌に投稿し、大学を中退してまでプロを目指し、20代で地球へ…のような漫画を作ってしまう、行動力と圧倒的な能力を持っていた竹宮恵子さん…

子供の頃からSF漫画が好きだったそうで、女の子としては少し変わった子だったのでしょうし、また何事も鵜呑みにせず流されず、色々なことを批判的に考える大人びた子だったのではとも思います。

必然的に、子供の頃は他の子たちからは多少浮いた存在だったのでは…

でも結局世の中を変えて行くのは、お上から押し付けられることに疑問を持ち、自分の力で考え、行動していく人たち、つまりは異端児たちなのですよね。

シロエはその生命と引き換えに、キースに決定的なSD体制への疑問、また人間とは何かと言う疑問を植えつけました。

ブルーとジョミーはミュウのリーダーとして最終的にはSD体制を打破し、遠い未来には人間もミュウもない世界を実現しました。

そしてキースは、コンピューターの支配から人間を解放しました。

ここまで劇的でなくても、流され何となく生きているだけでは、何も変えることはできません。

地球へ…は、人として生まれたからには意味のある生き方をしたいという、竹宮恵子さんの想いが込められた物語だと思っています。



地球は青かった?

Author: admin

12 14th, 2007

地球へ…のTVアニメでがっかりしたことの一つは、ジョミーたちミュウが苦難の末に初めて肉眼で捉えた地球が、荒廃し切った死の惑星だったという設定にされてしまっていたことです。

原作でジョミーが「だれかの意識がぼくの頭の中ではねた”地球か…?”と」「その瞬間にだれより早くぼくの意識はあの青い空をとらえた」「ぼくの運命を変えた星-地球!!」と独白したくだり、初めて読んだ時には涙したものでした。

何度読んでもその度に感動します(T_T)

ジョミーの頭の中ではねた、「だれかの意識」は、もちろんソルジャーブルーの意識ですよね。ジョミーはその強い能力と強い想いとによって、肉体の滅びたソルジャーブルーの意識を、自分の深層心理の奥底に取り込んでしまっていたという設定でしたから。

やっと、やっと地球を肉眼で捉えられる所にまでたどり着いたミュウたち…物語の冒頭で、「地球は遠い…せめて一度この肉眼でとらえたかった」と涙したソルジャーブルーの想いを、ついにジョミーたちが実現でき、ジョミーの潜在意識の中に存在していたブルーもまた、地球を肉眼でとらえるという悲願を果たすことが出来たのですから…

美しい地球、自分の運命を決定付けた憧れの地球…

実の親を持たず、家族の愛を知らず、作り物の世界で育ったアイデンティティの危ういジョミーたちが、唯一確かな存在として全てをかけて目指した地球が、想像よりずっと美しかったからこそ、それまでの苦難と悲しみが報われるのですよ…

それを荒れ果てた星にしてしまっては、それこそミュウも人間もかわいそう過ぎるじゃないですか(/_;)

過去は自分で変えることが出来ませんが、未来は自分で選んで作っていくことが出来るのですから、悲しい過去を持つミュウたちが命を賭けてたどり着いた地球は、せめて美しい星であってほしかった…

そう言えばTVアニメでは、アタラクシアがやたらときれいなのですよね。

原作の、巨大なビルの立ち並ぶメガロポリス、ロードウェイや空中を張り巡らされたチューブを使って移動する人間、その人工的で冷たい感じのするアタラクシアを、あんなに美しく作り変えてしまい、しかも肝心の地球を荒廃させてしまっては、美しい過去と希望のない未来という、原作とは全く相反する救いのない構図になってしまいます。

だいたい、SD体制が始まってから500年以上経っているのですから、そろそろ地球が生き返っている方が自然でしょう。

原爆が落ちた広島や長崎だって、当初は100年は植物も動物も育たないと言われたそうですが、実際には10年も経たない内に植物も動物も育つことのできる土地に戻ったのですから。

地球は、人間というヤドリギが離れてもそう簡単には回復しないという考え方は、人間の存在と影響力とを過大評価し過ぎだと思うのです。

人類なんて地球にとっては取るに足らない存在なのですから…

SD体制は地球を生き返らせるために作られたのですから、SD体制により人間性は破壊されてしまい、人間がコンピューターの部品と化してしまっても、その代償として地球は美しい星に戻っていなければならなかったと思うのです。

そうでなければ本当に、救いがなさ過ぎるではないですか(;O;)

意志の力で全てを成すミュウの存在は、悲しい過去や過酷な宿命があっても、意思さえ強ければ未来は作ることができると言う、竹宮惠子さんのメッセージだと思うのです。

それを大切にしてほしかったなあ…