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地球へ…

地球へ…は竹宮恵子さん原作で、アニメ化もされた漫画「地球へ…」を原作寄りの視点で熱く語るブログです

Archive for the 'トォニイ' Category

指導者

Author: admin

03 9th, 2008

SD体制下では人間の指導者はグランドマザー(とキース・アニアン)、ミュウの指導者はジョミー・マーキス・シンでした。

地球へ…のラストでは、人間たちが自らコンピューターの部品と化してまで再生を図った地球が滅びます。
それと引き換えに、人間とミュウとは和解し、共存への道を歩むことになるのです。

それまで長い長い対立の時代を生きてきたミュウたちと人間たちは、それぞれに強い指導者を必要としたことでしょう。

でも人間たちがコンピューターの支配から解放され、今後は自分たちの意思と判断で生きることになったので、強い指導力で人々を牽引するソルジャーや国家元首は必要なくなったのだと思います。

テレビアニメでトォニィがソルジャーになっちゃったのは、私はとても不自然に感じました。
だいたい監督が、ミュウと人間との新旧交代を描きたかったのなら、今後人間たちはミュウの支配下に置かれ、ソルジャーの導きに従って生きる訳??

だったらグランドマザーがソルジャーに代わっただけで、何も進歩ないじゃないですか(^_^;)

人間って世代を重ねても成長しない生き物で、古代ローマの紀元前の遺跡から、「最近の若い者は」って言う落書きが見つかったと、誰かが書いていました。

科学技術が進歩しても、現代の人間たちは紀元前の人間たちと何ら変わるところがありません。

大切なことを知ろうとせず、自ら考えず、何でも人任せなのに、結果には不満だらけ…
指導者と言われる人たち、権力や地位やお金を持っている人たちも、私利私欲に走り、全体を省みることをしません。

普通の人より優れた人たちが、滅私の精神で世界を変えていく気がなければ、いつまで経っても世界は今のままでしょう。

地球へ…を通して竹宮恵子さんは、そんな人間たちに「目覚めよ人よ」と呼びかけているのだと思うのです。

ジョミー・マーキス・シンが、キース・アニアンが、自らを捨てて、命を懸けて自分の下にある人たちを導こうとしたように、実在の指導者たちが考えれば、世界は変わるに違いありません。

そして、全ての人間が誰からも支配されず思うままに行動して、なおかつ正しく生きることができるようになれば…

そう考えると、地球へ…のラストは、究極のユートピアへのプロローグだと思えるのです。



01 29th, 2008

ジョミーにとってフィシスは、母であり、姉であり、憧れの女性であったのだろうと思っていました。

でも最近、ジョミーは実はもっと具体的な恋心をフィシスに対して抱いていたのではと気付きました。

グランドマザーの元へ赴くジョミーとキースとは、その途中で交わした会話により、最終的には和解したのだと考えます。

ジョミーが「フィシスはきみのお母さんだ…知っていたか?」とキースに問いかけ、キースが「思慕のような」ジョミーの感情を感じ取ります。

ジョミーは心なしか少し照れた様子を見せていました。

私は、ジョミーの思慕のような感情は、当然ジョミー自身の育ての母、「マム」に向けられたものとばかり思っていました。

でもよく考えてみると、ここで話題になっているフィシスに対する思慕の情なのでは?とも受け取れます。

そう言えば、ジョミーはフィシスに対し、「ジョミーでいい…きみにだけはそう呼んでほしい」と意味深長な言葉を口にしていました。

また、ナスカに永住を希望するミュウが出て来たことで長老たちの怒りを買い、ジョミーが精神攻撃を受けて倒れる直前に、フィシスがジョミーの呼びかけを感じています。

トォニィがフィシスを「地球人と通じて逃げ道を教えた」と責めた時にも、ジョミーは「なぜだっていい、彼女を傷つけるのは許さない」と、かばっています。

今にして思えばフィシスに対して特別な感情を抱いていたからかも…

でもフィシスはブルーの「大切な人」であり、「ミュウの女神」ですから、ジョミーはフィシスに自分の想いを知られることにより、フィシスを困らせたり戸惑わせたりしたくなかったのかもしれません。

ジョミーの心の何と繊細で美しいこと…

竹宮恵子さんの世界の繊細さ、儚さ、美しさは、なかなか他の人には表現できないようで、それが映像化するとどうしても大雑把で緊張感のない、暢気な感じになってしまう原因かもしれません。



ユウイ

Author: admin

01 23rd, 2008

トォニィのテレビアニメでのお父さん、ユウイは、マンガ少年別冊第二部の最後に収録されていたSF短編「集まる日」の主人公でした。
子供の頃読んだはずなのに、最近読み返すまですっかり忘れていましたが。

何にせよ、トォニィのパパがジョミーじゃなくて良かった…
くどいようですが、ジョミーは永遠の14歳なんですから子供作ったりしないんです(`^´)

それに、真のリーダーというのは孤独であり、私情に走ったり恋愛に現を抜かしたりしていてはみんなをまとめることも、引っ張ることも出来ないと思うのです。

映画でのジョミーは、カリナに好意を持っているのに正面切って言い出せず、ミュウの子孫を作るという大義名分をダシにカリナを口説いたようにしか見えませんでした。

ソルジャーともあろう者が情けないしセコイじゃないですか全く…

テレビアニメでは、ユウイの名前は確か墓標に「アスカユウイ」と刻んでありましたが、マンガでは「水凪結惟」という名前でした。

集まる日の中で、竹宮恵子さんの超能力者と既存の人類との関係についての考え方が、登場人物の言葉を借りて語られます。

「超能力を恐れる現人類が新人類を排斥しようとしてESP狩りをし、それを逃れた新人類たちは結集し、この種のテーマではたいてい、最後は新旧交代で終わる」と、終笛は言っています。

この頃の超能力を扱った物語は、きっとその手の物が主流だったのでしょう。終笛の台詞の前半部分と、地球へ…のストーリーは同様の展開をしています。

でも単に超能力を持ったものが、旧人類に代わって世界の主権を握るというストーリーではないことが、地球へ…の新しいところだったのですよね。

異なった者同士、いかにして共存していくか?という、普遍的なテーマを持つ作品なので、舞台装置や道具立てが少々古臭いにも関わらず、今読んでも全く古さを感じないのでしょう。

竹宮恵子さんは終笛に「僕が新人類なら人間を支配しようなんて思わないし、できるとも思わない」と、マンガのラストでは「お前たちには超能力を持つにふさわしい精神がない」とも言わせています。

また結惟は、超能力を持つ新人類を称して、「目覚めたるもの」と言っています。

彼らの信念、言動は、そのままジョミーに引き継がれています。

ジョミーは非常に強い力を持ったミュウであり、なおかつその力をどう使うべきか常に考えて生きており、優れたものならではの苦悩も持っていました。

ジョミーはまさに目覚めたるもの、力を持つにふさわしい精神を持ったものでした。
ユウイのことを書こうと思ってタイトルつけたのに、やっぱり最後はジョミーになっちゃいました(T_T)

ほぼ毎日駄文を綴って来ましたが、先日記事が50を超えてしまいました(^_^;)
我ながら良くこんなに書くことあるなあ…

でも毎日たくさんの方が読んで下さるのを励みに、これからも書くつもりですので、どうぞよろしくお願いします\(^o^)/



ゼル

Author: admin

01 22nd, 2008

ゼルは長老たちの中で、最も年齢が上に見えます。

外見の年齢を、自分の止めたいところで止められるミュウですから、この年齢が好みだったのでしょう。
あるいは、若い頃から髪が少なかったので、年を取るまで成長を止めなかったのかも(^_^;)

ゼルは長老の中では強硬派のようで、ミュウたちがナスカに永住したいと申し出た時に、「若いものたちの甘い夢が長じたものの憎しみをも消してしまった!」と怒っています。

ソルジャー・ブルーやハーレイは、人間に対する恨みではなく、ミュウがどうすれば人間から排除されなくなるのかということの方に関心があったようですが、ゼルは人間に対する恨みが深く、やはり何か忘れられない記憶がゼルの中で何百年もくすぶっていたことを感じさせます。

テレビアニメでは、弟を失ったからそれを恨みに思っているようでしたが、そもそも子供一人につき養父母一組の組み合わせで家族が構成されるSD体制下で、弟なんているのでしょうか?

他にもテレビアニメでは原作になかった数々の矛盾を生み出して収拾がつかず、なかなか大変なことになっていましたよね(^_^;)

ゼルの言動も随分と支離滅裂で、先週「人間の精神などどうなろうと構わん」と言っていたかと思うと、今週は「投降してきた者を殺めるなど…」と急に人道派になっちゃったり…

投降してきた人間までトォニィが殺してしまうのは、原作にはないエピソードで、映画から来ているのですよね。
時間が足りないと言うのにこのエピソードを入れてしまった映画制作者の意図も意味不明ながら、わざわざそれを再現してしまうテレビアニメもどうかと思いました。

しかもジョミーがそれを許すとは…

ジョミーもテレビアニメでは最後まで人間とミュウという狭い枠にとらわれ、私情や私怨で動いています。
「市民たりとも容赦はしない」なんて、ジョミーが言うはずありませんもの(T_T)

ジョミーの厳しさは、常に自分に対して向けられるもので、人間に対する恨みや怒りから戦争を仕掛けるジョミーなんて、考えられません。

ジョミーが地球軍と徹底的に戦ってでも地球を目指すのは、あくまでも人類との共存を目指しているからであり、その過程で市民を殺戮してしまっては、憎しみが更なる憎しみを生み、共存なんて望めないではないですか。

テレビアニメではこのあたりから、私のジョミーに対する共感はどんどん薄れていきました…

ゼルとハーレイ、エラ以外の二人の長老たちには原作では名前さえなく、存在感が薄かったのですが、できればテレビアニメではこの二人に名前をあげて、少しは活躍させてほしかったなぁ。

テレビアニメのスタッフが作ったゼルとしては、やっぱり私立シャングリラ学園のゼル先生が良いですね…

農業実習をサボって温泉につかり、「見よ!トマトが赤く燃えている–!!」と絶叫したゼル先生には、大ウケでした(^_^;)



01 21st, 2008

トォニィはジョミーのことを慕いながらも、自分と同じ「超人類」であるジョミーが、人間やミュウのために心を悩ますのが分からないと言い、「少し特別すぎる」とリオに嫌われたりしています。

トォニィはジョミーの意思により「強く生まれて来た」のですから、いわばジョミーの分身でもあったと思います。

そんなトォニィが、人類やミュウよりも進化した自分たち超人類だけで、「自由の天地へ行かないか」とジョミーを誘惑するのは、ジョミーの心の暗部を投影したのがトォニィの欠点だからではないでしょうか。

自分は優れたものであり、自分より劣ったものに奉仕することで一生を終えるのは嫌だと言う割り切った考えは、ジョミーの心の中にも全くない訳ではなく、ミュウの長としての責務を果たすため、常日頃自重している考え方だったのだと思います。

それをあっけらかんと口にしてしまう幼い頃のトォニィは、悪気はないのですが、優れたものが陥りがちな傲慢さに満ちています。

ジョミーはその気になればミュウや人類なんて助けていないで、新たな自由の天地を探しに行っても良かったのですよね。でもそれをしなかったジョミーの生き方が、私を感動させてくれました。

ジョミーには自分自身の存在そのものよりも、この世界の中でどのように生きるのかということの方が重要なのです。

物語の終盤ではトォニィも、人間でもミュウでもないジョミーの、地球を思う懐かしい心のために命を捧げると言っています。

トォニィはこの時点ですでに、人間、ミュウ、超人類などという枠を超えて、ジョミーと同じ、生きる意味を探求する存在になっているのですよね。

ジョミーの中の迷いや矛盾が解消したので、トォニィも成長したのかと考えました。

心理学に、一人の人間の中に存在する複数の人格を分解して見せたものが、物語の登場人物だという考え方があると聞きました。

竹宮恵子さんは大学で教育学を専攻されたそうですから、その辺りを意識して物語を作っているので、地球へ…の登場人物たちがそれぞれに身近に、真実味をもって感じられるのだろうと思います。



ナスカの子

Author: admin

01 17th, 2008

ジョミーはナスカで、SD体制以降初の「本当の人類」を誕生させました。
お母さんの胎内で育った自然出産児、トォニィたちナスカの子です。

地球へ…第一部の中で、教授が「幸運だな君たちは…ユニヴァーサルの教育を知らずESPエリートとしてここで生まれ育ったとは…」と言っているので、それ以前からミュウたちは自分達の子孫を増やしてはいたのでしょう。

SD体制下の人間と同じ、婚姻によらない人工授精と、人工子宮による方法で…
ジョミーが医師の一人と話をしている場面で、研究室に並ぶたくさんの試験管が描かれていましたし。

ナスカの子たち9人は、人間本来の方法で生まれた「本当の人類」であるだけではなく、「優しく弱く闘いを好まぬミュウに代わって闘えるものを求めていた」ジョミーの意思から生まれて来たので、特別な力を持っていたのですよね。

その力ゆえに、ミュウと言う異端者の集団の中にあって更に、異質な者たちであるナスカの子たち…
竹宮恵子さんはナスカの子たちに、随分と過酷な運命を課したものだと思います。

ナスカの子たちは、自分たちに地球へ向かう意味があるのか、地球へ着いたとしても自分たちに生きる場所はあるのかと悩みます。

ジョミーの「運命に対する悔しさを超えていられる」強さは、結局そんなナスカの子たちを、究極の異端者としての運命をも受け入れ、ミュウの悲願である地球へ向かうために全力を尽くすよう導きます。

ジョミーがアタラクシアに、テレパシーで送った「人間たちに恨みはない それぞれに生きそれぞれに歩いてきたのだ ともに地球を愛し憧れ-だからこそ戦う地球への道を!」というメッセージは、何度読んでも感涙ものです。

ジョミーは、排除され、虐げられた怒りや恨みなど個人的な感情を超越した存在、生きる意義を追い求め、人間とミュウの双方に対して(読者に対しても)、人間とは何かという疑問を突きつける存在であり、すでに一個の人間のレベルを超越してしまっているのですよね。

地球へ…のテーマを体現しているのがジョミーなのだと思います。
ジョミーの運命を受け入れ抗わず、その中で精一杯力を尽くす姿を見て、ナスカの子たちは地球へ向かう意義を見出すのですから。



キースの心の穴

Author: admin

01 16th, 2008

ナスカに囚われの身となったキース・アニアンは、コンピューター制御による意識のプロテクトにより、眠っている間にも、地球の本当の情報を決してミュウに与えませんでした。

その鉄壁の心に穴を開けたのが、トォニィです。

キースがSD体制始まって以来の本当の人類、トォニィの存在に衝撃を受けたのは、人間をコンピューターの部品のように扱い、不自然な方法で繁殖し、異質なものを排除して種の存続を図るSD体制に、心の奥で疑問を持ちながらも、そのSD体制の申し子としてこの世に生を受けた以上、その運命には逆らえないという、深い矛盾を抱えていたからでしょう。

トォニィの存在によって自分の中の矛盾を意識し、ついジョミーに自分の心への侵入を許してしまったキースは、ジョミーに「心の半分はシステムに反対している」ことを知られ、動揺します。

「不純物は出るさ…良質なものを作ろうとすれば当然だろう…危険な不純物は処分するのが適切だ!」とメンバーズ・エリートとしての建前を口にしながらも、サムやシロエの面影が脳裏を過ぎり、戸惑うキース…

自分のピアスがサムの血で出来ていることをもジョミーに知られ、「ロマンチストだな」と言われてしまい、キースは逆上します。

ジョミーとキースとが結局ここで理解し合えないことが、子供の私には今ひとつ理解できず、残念でなりませんでした。

ジョミーもキースも、常にいかに生きるべきかを自問しながら自分の属する世界に身を捧げる立派なリーダーであり、お互いが少し譲歩し合えば良い理解者になれるのにと思ったのです。

でも大人になってから、ジョミーとキースとが何故理解し合えなかったのかが、分かるようになりました。

個人としての正義と、集団としての正義とが合致しないことが往々にしてあり、そういう時には集団の正義を行動の規範にしてしまうのが人間なのですよね…

そこに生まれるのが対立であり、誤解であり、憎悪であり…

同じようにシステムに疑問を持ちつつも、ジョミーとキースとが互いの死の直前まで分かり合えなかったことは、本当に悲しいことですが、これが私たちの住む世界の現実なのだと、今では思います。



01 4th, 2008

地球のコンピューターシステムの中枢、グランドマザーは、本来の意味は「おばあさん」ですが、作中では「大いなる母」、「威厳のある母」、「マザーコンピューターシステムの中心的存在」という意味で名付けられたのでしょう。

ジョミーがトォニィに「グランパ」と呼ばれていたのは、このグランドマザーと対等にわたり合える存在であることを示唆しているのだと思います。

旧人類のシステムの要、グランドマザーと対を成す、ミュウの要、人間らしさの象徴がジョミーであるということですね。

トォニィは子供の頃、自分の両親の生みの親がジョミーだと教えられ、ジョミーを「グランパ」と呼んだ訳ですが、そこには竹宮恵子さんのこのような意図が込められていたのでしょう。

地球へ…の第一部では、テラズナンバー5の作り出す強力なテレパシーに対抗できるほどのエネルギーを持ったテレパシーを送る能力を持つのは、ソルジャー・ブルー以外にないとされていました。

その上位に位置するグランドマザーは、更に強力な力を持っていたに違いありません。ソルジャー・ブルーは、自分にはグランドマザーに匹敵するほどの力はないと判断し、長い長い間、自分を凌ぐ力を持つ後継者を探し続け、待ち続けたのでしょう。

対話するにせよ対決するにせよ、グランドマザーとの力の差が大きすぎると、歯牙にもかけられないでしょうからね。

そして現れたジョミーに、ミュウと人類との未来は託されました。

竹宮恵子さんは、グランドマザーの対極に位置し、人間の尊厳をかけてグランドマザーと対決するジョミーに「グランパ」という呼び名を与えたのだと考えています。

それにしても私立シャングリラ学園のトォニィは可笑しかった(^_^)

グランパは英語で「偉い人」っていう意味だと勘違いしていてキースに指摘され逆切れ(^_^;)
本編同様の圧倒的破壊力で暴走しまくっていました。

TVアニメの地球へ…は、どうしてこんなにもパロディの方が面白いのでしょうか…



12 16th, 2007

地球へ…の中で、竹宮恵子さんが人間というものをどう解釈しているか伺い知ることのできる台詞のひとつに、トォニイの「感じないかアルテラ 自分が宇宙に漂う際限ないエネルギーの中のひとかたまりだと」という言葉があります。

壮大で深遠な表現ですね!宇宙に漂うエネルギーの一部が形あるものとなって、生命が生まれた…

子供ながらに自分って一体何だろう?と自分の存在意義に悩んでいた私は、「そうか!自分は何者でもないと同時に、この宇宙の一部であることには間違いないんだ!」と感動したものでした。

竹宮恵子さんにこういう発想があったからこそ、ジョミーがソルジャーブルーの心を自分の深層心理の中にそっくりとらえてしまったり、死の瞬間のシロエの想いがジョミーに届いたり、ミュウたちが不思議な力を持っていたりするという設定を思いつくのでしょう。

ラストで他のナスカの子たちと共に、肉体を捨てて宇宙の果て、地球の見えないところまで行ってしまうトォニィ。

きっと肉体が滅びても、人間の精神は宇宙のエネルギーの一部となって漂い続けているに違いないと、私も思いました。

地球は、キースがコンピューターテラをシャットダウンしてしまったことにより一旦は滅びますが、長年争ってきた人類とミュウとが、いきなり和解して理解し合い仲良く大団円という訳にはいかないと思うので、これはこれで最も自然なラストだと思いました。

コンピューターによる支配から解放された後、長い長い年月が経ってから、人間もミュウも同じ人類として自然に共存し、母なる地球を目指して旅し、再び地球が生命を育む星となる予感を感じさせて、物語は終わります。

宇宙の際限ないエネルギーの一つの形が生命なのだという考え方があればこそ、地球が滅亡してしまうという、一見絶望的なラストも、破壊により再生が行われるのだと解釈でき、甘いラストよりもかえって清々しいカタルシスを感じさせるのだと思います。

それにしても10歳やそこらでそんな哲学的な思想を持っているトォニィ、さすが特殊能力の持ち主です(^_^;)



12 8th, 2007

あまりにも可笑しかったので…