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地球へ…

地球へ…は竹宮恵子さん原作で、アニメ化もされた漫画「地球へ…」を原作寄りの視点で熱く語るブログです

Archive for 12月, 2007

12 31st, 2007

スターウォーズの話題を出したので、ついでにもう一つ…
地球へ…とスターウォーズとは、どこかしら似ているのですよね。

ごく普通の少年が、超人的な英雄に導かれ、波乱万丈の冒険に旅立ち、苦難の末に大きな成長を遂げること、主人公が超能力を持つこと、また主人公が「本当の家族」を知らず、そしてそれを無意識の内に追い求めることなど…

ただ両者の決定的な違いは、登場人物たちが求めて止まないのは同じ家族でありつつも、地球へ…では「母なるもの」であり、スターウォーズでは「父なるもの」であることです。

これは、物語を作ったのが女性であるか男性であるかに負う所が大きいのではと思います。

竹宮恵子さんは「男の子ならしても良いことが、自分には許されなかった。例えそれが素敵なことではないにしても、自分も男の子と同じようにやってみたかった」と書いておられます。

恐らく当時の田舎のちゃんとしたお家の女の子として、女の子らしく、決まった道を進むようにと、きっと色々な制限や束縛があったことでしょう。

そしてそれを娘のために良かれと思って強いるのは、主に母親だと思います。
父親というのは娘に甘く、衝突しても結局は折れてしまう存在ですが、女の子にとって最も手強く、最も説得が困難な同性は、母親でしょうから。

ジョージ・ルーカス監督も「父は田舎町で小さな商店を営んでおり、厳格で怖く、自分にその商店を継ぐことを期待した」と語っていました。

同じように、息子のために良かれと思って、田舎町の商店を経営する人生を強いる父親は、男の子にとって最も手強く恐ろしく、高圧的な存在だったのではないでしょうか。

男の子の場合には、母親が父親の厳しさから息子をかばい、父親の行き過ぎを止めてくれる存在ですから、父親との関係の方がより困難なものだと推測します。

竹宮恵子さんもルーカス監督も、特別な才能を持っていたが故に、子供の平凡な幸せを願うあまりに冒険を絶対に許さない同性の親と、うまく関係を作れなかったのではないかという気がします。

地球へ…では、「父親」の存在が見事なまでに無視されています。

ジョミーが想うのはマムのことばかりですし、カリナの夫なんて一度病院の場面に登場しただけで名前もないような存在、コンピューターシステムの名前はマザーシステム…

スターウォーズではこれが正反対で、ルークとレイアの父がダースベイダーであったこと、ダークサイドに堕ちる以前はジェダイの騎士だったことなどが設定されているのに対し、二人の母は設定どころか名前さえ無く、ほとんど存在を無視されています。

旧三部作であまりにもルークとレイアの母の存在感がなかったため、エピソード1を見た時に、パドメが将来アナキンと恋に落ちて二人の母になるのだと、気付かなかった位でした。

この好対照、とても面白いと思います。

竹宮恵子さんもルーカス監督も、恐らく異性の親とはそれ程問題なく良好な関係を保っていたので、特に物語にしたいという強い欲求がなかったのでしょう。

それに対して、二人とも若い頃に同性の親と衝突し、家を出てまで自分の力を試し、夢を実現するために努力し、でもいつかは母に、あるいは父に、理解してもらい受け入れてもらいたいと願っていたのではないでしょうか。

その衝動が、各々母なるもの、父なるものを求める物語を作らせ、多くの人の共感と感動を得たのではと考えています。 

このブログを始めて1か月と少し、本当にたくさんの方が私の拙い文章を読みに来て下さいました。
頻繁に来て下さる方も多いようで、本当に感謝です。ありがとうございます(*^_^*)

もし面白ければ、是非人気ブログランキングへの投票をお願いしますm(_ _)m
それでは皆さま良いお年を(^_^)/
来年もどうぞよろしくお願い致します。



理力

Author: admin

12 30th, 2007

地球へ…の連載が始まった1977年には、スターウォーズが公開されているのですよね(^_^)

地球へ…の第一部が終了した後にスターウォーズが公開されたので、第二部から一層スケールが大きく、宇宙全体を舞台として物語が展開し始めるのは、やはりスターウォーズの影響があったものでしょう。

第二部が連載されている頃にはすでにスターウォーズが話題になっていたと見え、第二部の総集編に収録されている「まんまりの日々 またのタイトル”テラ”のできるまで」の中に、「理力」と言う言葉が出て来ます。

そういえば、スターウォーズ新三部作が公開されるまで、「フォース」は「理力」と訳されていたなあと懐かしくなりました。

竹宮恵子さんが「理力」を口にするのは、アシスタントさんにコンピューターパネルの碁盤目を所々黒く塗るよう指示するところです。

セキ・レイ・シロエが、キース・アニアンの出生の秘密を探るため、E-1077のデータバンクを管理する技師さんに近付き、情報を引き出してもらうよう頼む場面でした。

この場面、巨大なコンピュータールーム一杯にパネルが並び、それを部屋の中央のずっと下の方から見上げるように描いてあります。

真ん中にちっちゃな宇宙船に棒のようなスタンド(?)の付いたものがあり、これが実際にコンピューターを操作する道具のようでした。

今のコンピューターの概念とは随分違いますが、これはこれで、当時の未来感が何となく分かり、レトロながらも面白いと思います。

このページ、シロエの「マザー・イライザ!お前の最愛のトップエリートを…お前の手でぶちこわさせてやる!」という独白も加わって、とても印象的なページでした。

でも、これを描くのに二人のアシスタントさんが3時間もかけたとは、漫画とは本当に手のかかるものなのですね…

筆を使うとはみ出してだめよぉ!とか騒ぎながら四苦八苦しているアシスタントさんたちに、竹宮恵子さんは涼しい顔で「理力をお使いなさい」と言うのです(^_^;)

この頃竹宮恵子さんとアシスタントさんたちの間で、スターウォーズがちょっとしたブームだったのでしょう。

今発売されているコミックスだと、こんなことは知る由もないので、マンガ少年別冊版が手に入ってご満悦の私でした。



12 29th, 2007

地球へ…のマンガ少年別冊版を手に入れてしまいました(*^_^*)
こんな古い本が今頃手に入るとは思っていなかったので、感無量です!

地球へ…を初めて読んだのは、このマンガ少年別冊版だったので、読者からの質問に竹宮惠子さんが答えるコーナーや、SFミニミニ辞典(時代を感じますね…)、ミュウの宇宙船解剖図など、そう言えば読んだなあと、懐かしく読み返しています。

地球へ…Q&Aの中で、アタラクシアは地球から二千光年の距離というが、その距離では銀河系の中にあることになるため、銀河系全体を外から見ることは不可能では?という質問がありました。

竹宮恵子さんはそれに対して「確かにその通りです。二万光年と訂正します」と答えておられ、実際にテラズナンバー5の台詞も「地球からは二万光年離れた星」と訂正されています。

ところが後に、フィシスが持っていた銀河系のイメージは、グランドマザーが創った人造人間の共通の暗号という設定がなされ、「銀河系外に育英都市はひとつもない」とジョミーは言っています。

最初勘違いで設定してしまったことを、ストーリーの一部を作るために使ってしまうなんて、竹宮恵子さんは何と柔軟性のある人なのでしょう!思わず笑ってしまいました。

第二部総集編でSF作家の光瀬龍さんと対談した竹宮恵子さんは、少年を描くのは「変身願望」ではなく「変革願望」、「男の子になりたい」のではなく、「男の子のように私もやりたい」、「竹宮さんって男の子になりたかったのでしょう?私もそうなの、だからあなたの作品が好きと言われると、何だかちがうんだなー」とおっしゃっています。

またQ&Aの中で「今自分達の持っている価値観が単なる妄想に過ぎないことを、一体何人の人が感じているでしょうか」とも語っています。

全ての漢字にふりがなが振ってあるような子供向けの漫画に、竹宮恵子さんは全く手を抜かず深いメッセージを込めたものだと、改めて感動しました。

竹宮恵子さんは、既存のステレオタイプなものの見方や価値観に疑問を持ち、常にいかに生きるべきか模索し、挑戦している人なのでしょう。

光瀬龍さんや、あの映画版を作っちゃった恩地日出夫さんの言葉を読んでみると、あまりにもステレオタイプで単純な価値観しか持っていないなあと思ってしまいます。

年齢が半分くらいの竹宮惠子さんの方がずっと視野が広く、思考が柔軟で(これは若いからこそなのかもしれませんが)、考え方が成熟しています。

既存の価値観に囚われない柔軟な思考回路を持つことが、人間として大切なことだと竹宮恵子さんは考えていたのだと思うのですが、それが伝わらない人がたくさんいるというのは、残念なことですね…



12 26th, 2007

地球へ…の映画版の話題をことさらに避けて来た訳でもないのですが、あまり興味がないので、書くことがなかったのですよね(^_^;)

映画版は30年近く前の作品を最近初めて見たせいもあるのでしょうが、絵は酷いわ、ストーリーは支離滅裂だわ、メカはダサいわ(ミュウの船なんて、ヤドカリみたいですからね…)と、突っ込みどころ満載で、TVアニメに不満だった私も、これを見ちゃったら「まっこれと比べればTVアニメはまだ許容範囲内かな?」と思う程でした(T_T)

あの作品が本当にヒットしたんでしょうか…とても信じられません(/_;)特にあの主題歌、あれはないんじゃないかなあ…

あの映像を見せられた後、ラストの歌で駄目押しの脱力感…

いかに斎賀みつきさんが好きだとおっしゃっていても、あの凛々しい声で歌って下さっても、ダサいものはダサい(^_^;)

それに比べれば今のアニメの音楽って、普通の音楽ですよね!
地球へ…のTVアニメのオープニング、エンディングは、どれもなかなか良い曲でした。

ただ、私が本放送を見始めた頃のオープニングテーマは高橋瞳さんの曲で、その30秒程を聞いた限りでは、歌がうまくないという程度の印象だったのですが、スカパー!でフルコーラスを聴いて、びっくり(@_@)

あまりにも音程が狂い過ぎ…特に高い声は出せないらしく、高音域は全て半音くらい低い音しか出ていません。

これをさほど歌が下手だと分からないように編集しちゃう音楽スタッフの能力がすごいと、変なところに感心してしまいました。

でも、オープニング、エンディングの音楽をそれぞれ二曲ずつ作っちゃう予算があったなら、もっと脚本とかにお金を割けなかったのでしょうか…



キースとサム

Author: admin

12 25th, 2007

キース・アニアンとサム・ヒューストンは、なぜあんなにも気が合ったのでしょうか?

二人はかなり対照的に描かれています。

サムは素直ですぐ感情を表に出してしまう気の良い人で、システムに対する疑問を持たず、うまく洗脳されてしまっています。また、曲がりなりにもエリートコースには来たけれど、どうもエリートの中では落ちこぼれのようです。

キースは内面的には非常に感情的で、システムに対する疑問も持っているのですが、それを表に出すことの無い、抑制の効いた性格です。また、エリートコースの学生の中でも特に優秀で、教授たちにも「彼はあまりにも完璧だ。まるでマザーイライザの申し子のように」と評されています。

今TVアニメを再放送しているので、ついついそれを見てしまうのですが、キースが宇宙の藻屑になりそうな所をサムが助けたとか、何かドラマチックなことがあって一気に友情が芽生えたと言う設定は、あまりにもお手軽すぎですね。

お互いを受け入れられるかどうかが、友人関係においては重要なのではないでしょうか。

TVアニメのサムは、あんなドラマティックな友情の始まりを経験していながら、キースに「お前は俺たちとは違うんだよ」などと、随分ひどいことを言い放っています。

何となく自分は他の人とは違うような気がしているところへ、一番の親友だと思っていた相手からそんな言葉を投げつけられたら、私なら百年の恋(あっ友情か…)も一気に醒めますね…

キースとサムとの友情は、サムがキースを特別視しなかったから成り立ったし、その後も続いたのだと思っています。

人間は、異質なものを恐れ、排除しようとする…

キースはその完璧さから、人から羨まれ、時には妬まれたり恐れられたりしたに違いありません。

サムは、キースの感情的なところ、人間的なところも知っていて、特別視したり妬んだり恐れたりはしなかったので、キースはサムに心を許していたのでしょう。

TVアニメを作った人たちには、キースの孤高の魂が理解できなかったのでしょうね…人より優れているということが、時には辛いことであると言うことも、分からないのかも…

そう言えば、再放送を見ていて初めて気付いたのですが、毎回脚本を書いている人が違うなんてびっくりしました(@_@)

Wikipediaで調べてみると、アニメではそれ程珍しいことではないようですね。人間の俳優さんが演じるドラマだったら、普通はありえないと思うのですが…

TVアニメでの登場人物像のあいまいさも、ストーリーのちぐはぐさも、脚本を書く人が毎回変わることと少なからず関係するのでは?

世界に冠たるアニメ文化を誇る日本なのに、こんな粗製濫造をしていないで、きちんとした作品を少し作るのでは商業ベースに乗らないのでしょうか?



12 24th, 2007

ジョミーがナスカをひと時の安住の地として選んだのは、「閉じ込められた皆の心を解き放ち」、「人間への憎しみだけで一杯の心にもっと温かい思いをしてほしかった」という理由からでした。

地球とは似ても似つかぬ、二つの太陽と赤い大地の星、ナスカ…

ソルジャー・ブルーの遺志を大切に思いながらも、仲間たちのために最善と考えて、苦悩の末に一旦ナスカに降りることを決意したジョミーに対し、ミュウ達は、それぞれに主張や要望をしてきます。

ジョミーを支えるべき立場であり、何百歳も年長の長老たちまで…

人間への憎しみに囚われている長老たちは、多くのミュウが地球へ向かうことを断念しナスカへの永住を希望するようになったことをジョミーの責任と考え、「みなおまえの独断が…!」と、ジョミーに精神攻撃をかけてしまいます。

小学生の時には、「長老たちひどいなあ…一番悩み苦しんでいるのはジョミーなのに(T_T)ジョミーよりずっと年上なんだから、もうちょっと分別があってもいいんじゃない?」と思っていました。

この場面もそうですが、初めてジョミーがミュウの船に行き、「おまえたちのような化け物といっしょにされるくらいなら…」と発言して若いミュウたちを怒らせた時にも、手ひどい精神攻撃をくらっています。

地球へ…の原作では、ミュウはとても感情的で、キースの言葉どおり「すぐカッとなり、怒ったり泣いたり同情したり、そのくせいざとなると闘争心がない」ように描かれています。

TVアニメでは、ミュウたちはもっと立派で理性的で自制心があり、「危険な力を振り回す化け物ではない」ことになっていました。

この設定により何となく、ミュウ=正義、人間=悪という図式ができてしまって、戦争に良いも悪いも無い、戦争において正義VS悪という単純な図式は成り立たないという、原作のメッセージが希薄になってしまいました。

ミュウと人間双方が多くの欠点を持ち、なおかつ各々の価値観でより良い世界を実現しようと模索する存在であればこそ、両者の戦いに悲壮感が漂うのであり、それを単純化してしまうと、深みがなくなってしまいます。

長老たちがナスカを凶星と考え、ジョミーに責任を押し付け、精神攻撃までしてしまうのは、とても人間くさく、自然な展開だと思うのです。



りこうなヤドリギ

Author: admin

12 23rd, 2007

地球へ…のテーマの一つに環境破壊があると解釈する人もいるようですが、それは間違いです。

竹宮恵子さんもスカパー!のインタビューに答えて「環境破壊をテーマにすえたつもりはなかったが、何故かそこがクローズアップされてしまって…」とおっしゃってました。

地球へ…の中での環境汚染は、ミュウの存在と同じように、設定の一つであり、舞台装置に過ぎません。

地球へ…を超能力がテーマの物語だと考える人はいないでしょう。なのになぜ、やはり設定の一つに過ぎない環境破壊をテーマだと解釈してしまうのか?

それは現代の人々が、そのように思考をコントロールされているからだと思います。

地球へ…の中の人類が、コンピューターの意のままに操られ、洗脳され、思考力を奪われていたことと、現代人が知らず知らずの内に思考をコントロールされていることとは、とても似ていると思うのです。

地球へ…を読む前から私は、「環境保護」と言う言葉が気にかかって仕方がありませんでした。

人間って地球を保護できる程の力があるの?自分たちを保護してくれている地球を破壊しておいて環境保護だなんて、不遜ではないの?大体、もっと大切な、解決しなければならない問題が世の中にはたくさんあるのでは?といつも思っていました。

セキ・レイ・シロエの「地球と人間との関係はいうなれば、りこうなヤドリギが寄生主を守るなどという大義名分を考えついた ちがいますか」と言う台詞を読んで我が意を得たりと思い、おそらく竹宮恵子さんも、環境保護などと騒ぐ人々を、一歩引いて冷静に見つめているのだと考えました。

グランドマザーは、地球における自分の支配を絶対的なものにするため、人間を洗脳し思考力を奪い、人間としていかに生きるかということよりも、地球を守ること、ひいてはグランドマザーを頂点とするSD体制を死守することを最優先事項と人間に認識させていました。

現代人が置かれている状況と、良く似ています。

地球上では今この時も、思想や宗教の違いなどから理解し合えない人々の間に争いが絶えず、人々は扇動され操作されていることにも、本当の問題はどこにあり、何が大切なのかにも気付かず、疑問を持たずに生きている…

私たち一般人の思考をコントロールしようとする者は、本当の問題が何であるか、気付かれては困るのですよ。

だから、目の前に分かりやすくとっつきやすい問題を提示して見せ、それを重要なことだと認識させることで、本当に重要な問題に目を向けさせないようにするのです。

地球へ…を読んで環境破壊がテーマの一つだと思っている方、危ないですよ…



12 20th, 2007

以前「プロットの穴」で、ソルジャー・ブルーは亡くなった時201歳以上だったはずと書きましたが、最近その間違いに気付きました。

3世紀にわたって生きるには、生まれた年にもよりますが、最も短くて101年生きれば良いのですよね…

地球へ…の原作の序盤で、SD336年にミュウが発見されたとあり、ソルジャー・ブルーはミュウの中でも最も長く生きてきたとのことでしたから、その年が成人検査を受ける14歳だったと考えるのが自然でしょう。

そうするとソルジャー・ブルーはSD322年生まれ、前述したように、途中で時間がワープ(?)しているので、とりあえずジョミー、キース、サムが16歳、シロエが14歳の年の年末が534年とすると、ソルジャー・ブルーが亡くなったのはその2年前ですから、SD532年で、享年210歳ですね…

でも、ジョミーとサムとがナスカで再会したのがSD577年で、その年二人は共に23歳という設定に従うと、ソルジャーブルーはその9年前、SD568年に266歳で亡くなっていることになります。

旧人類の3倍もの寿命があるということでしたから、どっちかと言うと266歳まで生きたというのが正解っぽいですが…

でもジョミーがミュウの船に迎えられた直後、教授が150年の間に集まったミュウの数は1000を超えたと言っていたので、この年は元々SD480年頃という設定だったのか?

考えれば考えるほど謎ですね(^_^;)



12 19th, 2007

なきネズミは原作では、ミュウの開発した生き物だという事でした。
ミュウは生命科学をはじめとして、科学技術一般に明るかったようですね…

なきネズミは火星で捕獲される生き物と公表されているという設定でしたが、地球から2000光年離れたアタラクシアですから、きっと公表しているユニバーサル自身は、嘘だと分かっているのでしょうね。

アタラクシアで育てられている子供たちは、アタラクシアを地球だと信じさせられ、大人になったら山の向こうの大人の世界へ行くのだと教えられていました。

大人はどうだったのでしょうか?やはり事実を知りながら子供に隠すのは難しいでしょうから、ユニバーサルに勤務するいわゆる「お上」以外の大人たちもまた、コンピューターにより洗脳され、自分たちが地球に住んでいると信じていたのではないでしょうか。

それにしてもなきネズミ、ミュウの開発した生物だけあって長寿です。
ミュウも細く長く、体の虚弱な分旧人類の3倍の寿命があるということでしたから。

地球へ…の原作で、最後になきネズミが出て来たのは、メンバーズで編成された対ミュウ特別部隊の攻撃を受けた後、ジョミーがリオとエレベーターに乗っている場面でした。

この時トォニィは10歳そこそこですから、ジョミーは35歳くらい?

と言うことは、少なくともなきネズミは20年位は生きていることになります。

「ゾウの時間 ネズミの時間」と言う本がありましたが、この中で「一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギー使用量は、サイズによらず同じ」と解説されていました。

つまり、小動物ほど鼓動が早いので、寿命が短いということなのですよね。

あの小さななきネズミを、どうやってそんなに長寿に作ったのか…

そういえば、映画「グリーンマイル」で、トム・ハンクス扮するポールと一緒に、死刑囚ジョンの不思議な力を注がれたネズミ「ミスタージングルス」も、ポールと共にずいぶん長生きしてましたよね。

やはり超能力のなせる業に違いありません。

竹宮恵子さんは多分、そこまで考えていなかったのではと思うのですが、あまり緻密に計算されていない設定に関しては、読みながらここの設定ってこういうことかな?などと考えるのが、また楽しかったりします。



12 18th, 2007

地球へ向かうと同時に、システムの要である教育を担う育英都市を制圧するため、アタラクシアを目指したジョミーたち。

アタラクシアを制圧したジョミーが真っ先にリオに調査を頼んだのは、もちろん両親の所在でした。

そのすぐ後、テラズナンバー5と対決した時に「15年前お前の成人検査から逃れた」と言っているので、ジョミーは29歳で、その15年間両親のことを思わなかった日はなかったことでしょう。

恐らく両親の方は、それ程愛着を持ってジョミーを育てた訳ではなく、職業だから職務(とコンピューター)に忠実に一生懸命義務を果たしただけなので、ここまで一途に両親を想うジョミーの心が哀れでした。

しかも両親は、ジョミーが成人検査に合格できずミュウとして生きることになった時点で、「処分」されていたことは間違いないでしょう。

竹宮恵子さんは、主な読者が子供であることを想定した少年漫画で、はっきりとそれを描写するのを避けたのだと思います。

リオの「あなたのご両親はすでに他の育英都市に移されてしまっていて…おそらくあなたの逃亡の直後でしょう。行き先の明示はありませんでした」と言う台詞が、全てを表しています。

完璧なコンピューター管理社会で、異動先が分からないなどと言うことが起ころうはずもありません。

思わず「…殺されたのか?」と問うジョミーに、「いいえ!まさか!確かに移籍したと記録されていただけです」と苦し紛れに答えたリオ自身の両親も同様に、不適格者を育ててしまった養父母ということで、リオがミュウの船に迎えられた後に「処分」されたに違いありません。

SD体制下では、14歳のいたいけな子供を、成人検査に失敗し、地球のシステムを知り、なおかつ洗脳されず子供のままの危険分子というだけの理由で簡単に処刑してしまえるのですから、大人であればなおのこと、それ以外の結論はないと思います。

それでも「マムもどこかの星でミュウの子を世話するようになるだろうか」と、あくまでも両親がどこかで健在でいるという希望を捨てないジョミー…

ジョミーの強さであると同時に弱さでもある優しさと、繊細さとを感じました。